富本憲吉の主な出来事や作品の年表と 買取

明治19年(1886)奈良県安堵村東安堵の大地主の長男として生まれる。家は法隆寺々侍の出であった。
明治25年(1892)安堵村小学校入学。
明治26年(1893)祖父の友人である日本画家 嘯園に南画を学ぶ。
明治29年(1896)斑鳩高等小学校入学。
明治36年(1903)日本美術院主催展覧会入選。
明治37年(1904)奈良県立郡山中学校を卒業、東京美術学校図案科建築部に入学。
明治38年(1905)日本画を川端玉章、洋画を岡田三郎助に学ぶ。
明治41年(1908)英国に私費留学。西洋建築を学ぶ。
        ロンドン市立セントラル・スクール・オブ・アーツのステンドグラス科に入学、
        かたわら古代ペルシャ陶器、エジプト美術を研究した。
        英国留学はウィリアム・モーリスの思想と工芸の仕事に興味をもったためという。
明治42年(1909)東京美術学校卒業後、渡英。
        アーツ(ステンドグラス科)入学。装飾について学ぶ。
明治42年(1909)東京美術学校図案科建築部卒業。
明治43年(1910)回教建築研究のため、農商務省より印度派遣。
        安堵村の自宅にアトリエを構え、版画や彫刻などを制作。
明治44年(1911)帰国。暫時清水組にて建築設計に従事、のち木版画、染織に専心、在日中の英人バーナード・リーチと親交を結ぶ。
明治45年(1912)バーナード・リーチと共に楽焼を始める。
        六世尾形乾山をリーチに紹介し、その通訳をしているうちに、自分でもはじめるようになったと言われている。
        清水組入社。
        住宅建築の透視図を建築教会主催コンクール出品受賞。
大正2年 (1913)郷里安堵村に楽焼の窯を築く。
大正3年 (1914)東京で第1回楽焼試作展をひらく。
        楽焼研究も堂に入り始め、赤楽地に自宅井戸端の柘榴を線彫りにした花瓶等多く作成。
        尾竹一枝と結婚。
大正4年 (1915)故郷に本格的な窯を築く。白磁の焼成に成功。
大正5年 (1916)安堵村周辺の風景の中より「竹林月夜」「大和川急雨」「曲る道」等と題する模様を創作する。
大正8年 (1919)信楽焼研究のため近江へゆく。日常陶器の多量生産に関心があった。染附、白磁と手がけ始める。
大正9年 (1920)助手小城久次郎の協力で磁器の陶板焼成に成功。
大正12年(1923)陶磁器研究のため朝鮮へ旅行。李朝白磁、象嵌等を研究。
大正15年(1926)東京府北多摩郡に本窯を移し居住。
        野草花、洋花、小鳥などを写生して模様化し、
        染附、象嵌、技臘、色絵等にて大鉢、大皿、中皿、飾筥、花生等に昭和21年頃まで絵付する。
昭和元年(1926)世田谷に窯を築く。
昭和2年 (1927)4月、第6回国画創作協会に工芸部、彫刻部が新設され、すでに会員となっていたので工芸部を担当した。
昭和3年 (1928)国画創作協会第1部(日本画部)解散。他の部門は国画会と改称して再出発した。
昭和9年 (1934)帝国美術院会員となる。
        この間東京の冬季の陶土凍結をさけ、九谷、信楽、益子、波佐見、京都、瀬戸等各地の陶業を研究、
        九谷では10カ月滞在して本格的上絵の研究をすすめる。
昭和16年(1941)九谷へ行き、北出塔次郎窯で制作。
昭和19年(1944)東京美術学校教授。
昭和20年(1945)学生と共に高山市に疎開し、終戦と同時に帰京、芸術院会員、東京美術学校教授等の一切の公職を辞退して、
        郷里の旧居に移り水墨画にしたしむ。
昭和21年(1946)色絵に加え金銀を同時に焼き付ける技法を完成。
        羊歯文様等による独自の作陶世界を確立。
        東京美術学校教授・芸術院会員を辞す。福田力三郎の窯で制作。同志と共に国画会脱退。
昭和22年(1947)新匠美術工芸会結成。代表に推挙される。
昭和24年(1949)京都市立美術大学教授。
        この頃米国在の日本大使館に買上げの金銀彩蓋付壺に始めて銀に白金を混ずる事に成功、
        作品に色絵金銀彩椿図陶板、自作陶器図案50図画帖、自作陶器図案百図画帖等。
昭和26年(1951)新匠美術工芸会を「新匠会」と改称。
        羊歯の連続模様完成。金銀彩同時焼成を成功。
昭和30年(1955)重要無形文化財技術指定保持者(人間国宝)認定。
昭和35年(1960)作品に金銀彩羊歯文蓋附飾壺、色絵四辨花飾筥、大飾皿、染附竹林月夜大飾皿(各宮内庁買上げ)等がある。
昭和36年(1961)文化勲章を授与される。作陶50年、作品に金銀彩羊歯文飾筥、染附絵替り組皿5枚、染附色絵並用絵替り組皿5枚等。
昭和37年(1962)京都市東山区に移る。作品に金銀彩四辨花飾筥、金銀彩描きおこし四辨花文蓋附飾壺等。
昭和38年(1963)京都市立美術大学、教授を定年退職。学長就任。
         6月3日、逝去。従三位、勲二等旭日重光章。

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