明珍の主な出来事や金工作品の年表と 買取

初代 増田宗介紀ノ太郎 
明珍家は平安時代より続く甲冑師の家系で、京都で馬の轡を作る轡師。
12世紀半ばに近衛天皇に鎧と轡を献上し、明珍の姓を賜る。

宗広 安土桃山時代の人

16代目 明珍義保

17代目 明珍信家(みょうちん のぶいえ)文明18年(1486年)~永禄7年(1564年)とされるが諸説あり。
室町時代末期(戦国時代)、相模国小田原の甲冑師。
初め安家と名乗り、号は覚意、本姓は藤原氏。
明珍義保の男。、通称(官位)は左近将監。
甲冑師の一族である明珍家17代に当たる。
伝えでは、武田晴信の一字を賜り、信家と改名したとされる。
「日本最高の甲冑師」と称された。
後世でも一族は、楯無や避来矢といった名立たる甲冑の修復作業に手を貸した。

18代目 明珍貞家(みょうちん さだいえ)1500年代の人
明珍信家の子。

明珍宗信 江戸に居を構える。

明珍宗介(みょうちん むねすけ)1642-1726(享保11)85歳没。
中興の祖。
江戸時代前期から中期の甲冑師。本姓は増田。
寛永19年生まれ。明珍本家。江戸に居住。
明珍式部宗介、明珍大隅守紀宗介などと称し、鉄鐔、具足、兜鉢などの遺作がある。
江戸時代の同家を発展させた宗家的な存在といわれる。

明珍吉久(みょうちん よしひさ)生年不詳~1664年(寛文4) 
江戸時代前期の装剣金工。
本姓は井手。通称は小左衛門。
越前(えちぜん)(福井県)明珍家の初代。
北庄(きたのしょう)藩主となった結城(ゆうき)秀康にしたがい福井にすむ。
菊透かし、麻の葉透かし、多面彫り丸竜、鳳凰などの鍔(つば)や大英博物館所蔵の「鷲」の置物などを制作した。

明珍義時 江戸時代
幕府の大老である酒井忠清のお抱え甲冑師となり、現在の群馬県前橋市に住むようになる。

明珍宗房 江戸時代
主君酒井忠恭が姫路藩主となったため、姫路に移り住むことになる。
「姫路藩兜鍛冶明珍」と題する古絵に、
「明珍の打ちたる兜や鎧の胴は、刀では切れず、鉄砲のたまも通らなかった」と記されている。

48代目 明珍百翁宗之
明治時代に入り甲冑の需要がなくなり、廃業の危機に見舞われ、
千利休の依頼を受けて作ったといわれる火箸に着目し、48代明珍百翁宗之は火箸作りを生業にし、
明珍火箸の名を天下に馳せた。

51代目 明珍宗之
昭和に入り、戦争中の「金属回収令」などで原料の鉄が入手できず、鍛冶道具まで供出させられるなどの危機が訪れる。
51代宗之は、明珍の技を守るため代々続いた家や土地を売り払った。

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