八木一夫の詳しい説明と 買取

大正7年、陶工・八木一艸の長男として、京都に生まれた。
13才で京都市立美術工芸学校彫刻科に入学、卒業後は、商工省陶磁器試験所伝習生となる。
その頃、沼田一雅の日本陶彫協会に入会し、陶彫を学ぶび、第1回展に出品を果たすなど陶芸家としての一歩を踏み出した。
しかし戦時中という事もあり、兵役に就き、神戸や京都での教員生活を経てから、昭和21年より陶芸家として制作活動に専念するようになる。
中島清を中心とした青年作陶家集団の創立に参加し、活動を続ける。
青年作陶家集団は、会員間の考え方の違いから解散し、後に、昭和23年、鈴木治、山田光、松井美介、叶哲夫とともに走泥社を結成し、伝統にとらわれない自由な陶芸をめざし、オブジェ焼きという新分野を開き、常にその先頭に立って新陶芸運動を推進した。
走泥社は、結成当初は実用的な器の中に海外の美術に触発された新感覚を加えたものを中心としていた。
実用的な器体にクレーやミロなどに触発された新しい文様を施した作品を発表した。
やがて昭和30年頃から、来日中のイサム・ノグチのテラコツタやピカソの陶芸作品にも触発され、前衛的な陶芸を目ざすようになり、次第に器の実用性を考えないオブジェ作品が中心となった。
1945年に「ザムザ氏の散歩」発表し、現代陶芸に新分野を確立した。
この作品は、八木一夫の作品の中で最も注目され前衛の旗手となった作品で、フランツ・カフカの小説「変身」の主人公をモチーフとしたロクロ成形による抽象オブジェである。
カフカの「変身」は、一夜にして昆虫に変身した主人公の人生を描いた作品。
「ザムザ氏の散歩」を発表した当時は、オブジェ焼が認められていなかった事もあり、「カフカを焼いた」と陶芸界の事件となった。
後に「ザムザ氏の散歩」は八木一夫自身の変身と重ね合わせたものだと考えられるようになった。
用途を持たない彫刻的な作品を「オブジェ焼き」と称して制作し、表現としての可能性を追求し続けた。
陶土と火によりながら、従来の焼物でもなく、彫刻でもない新しい芸術の分野を開拓することを目的とした。
ロクロを用いながらも器形を捨てた後、陶芸の概念を破った新造形を展開。
こうした土による新たなる造形は当時流行した前衛的な生け花をオブジェと呼んだことに因み「オブジェ焼」と呼ばれた。
一時はブロンズやガラスによる作品も手がけたのち、晩年の1970年代に入ると、黒陶の本や手、足など具体的なイメージを表した、簡潔なフォルムで、観念的作品に独自の世界を示し、観念的作風を示した。
その黒陶作品はさらに幾何学的なフォルムへと向い、あるいは鉛を、また色彩を黒い肌に合わせた情念を形式化したともいえる作品作る。
やきものの既成の枠を破る世界を開拓したが、決して伝統的な陶芸そのものを否定したのではなかった。
オブジェ作品をつくる一方で、生涯を通じて茶碗や壺の制作も続け、土への深い愛着を持ち続けていた陶芸家といえる。
現代陶芸にオブジェという新しい分野を確立させ、用途や機能をまったく顧慮しない純粋な立体造形をめざしていた事から、「前衛陶芸」「オブジェ陶芸」などと呼ばれている。
茶碗や壷にも優品を遺している。
京都市立芸大教授をつとめ、昭和54年(1979)死去、60才。

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