大森英秀の詳しい説明と 買取

享保15年(1730)江戸の生まれで、大森英昌の甥。
江戸時代中期~後期に活躍した刀装具の金工細工師。
通称は喜惣次、名を英秀、号は一濤斎、竜雨斎。
江戸で活躍した町彫りの彫金師で、大森派の二代目。
英秀の長男は大森派三代・大森秀永。
横谷宗珉の門人・大森英昌に師事し、のち養子となりその後家督を相続し、大森派をついだ。
浪頭を鋤下彫りで立体的にみせる大森浪とよばれる独特の彫り(波涛図)や、金梨子地象眼細工などの彫法を考案した。
寛政10年(1798)4月死去、69歳。
師である横谷宗珉(よこや そうみん)とは、刀装具の金工細工師で、江戸幕府彫物御用の後藤家の下職から出発し、のち、役を辞し、自由な題材、材質、構図などをとり入れ、町彫りを創始した人物。
片切り彫りの彫法を大成し、絵画風の自由な意匠を表現し、当時の彫金界に一世を風靡した。
作品は小柄、笄、目貫、縁頭と多岐にわたり、赤銅の魚々子地に肉高の高彫色絵のほか、四分一地に片切彫があり、図柄は虎、獅子、獅子牡丹、一輪牡丹などが多い。
門下は、大森英昌のほかに、古川元珍、柳川直政などがいる。
日本刀は世界でも他に類を見ない金工作品で、古代から何代にも渡って伝えられてきた伝承技術である。
刀装具から伝承されていった金工細工の技術は、職人技がたいへん素晴らしいもので、明治や大正時代の職人へと受け継がれていくことになる。
大森英秀が活躍した時期の日本の金工細工師は世界でも非常に評価が高く、現代ではなかなか真似できない彫金細工や象嵌細工が施された金工作品が多くあり、世界中にその愛好家がいる。
日本の金工細工の職人技の素晴らしさや美しさの元となったのが大森英秀のような金工作家で、その技は次世代へと伝承され見本となって行った。

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