山川孝次の詳しい説明と 買取

初代山川孝次は文政11年(1828)金沢に生まれた。
町人で、通称、山屋八十吉と言う。
天保年間江戸の柳川春茂(内田甚三郎ともいう)に弟子入りし、技術を修める。
柳川春茂は、自由な作風がもてはやされていた江戸町彫の名工横谷宗珉の系統を継いで金沢で開業していた。
柳川春茂に11歳から10年間修行して頭角を顕し、師の一字を受けて、はじめ茂孝とも称した。
やがて、文久2年(1862)に13代藩主前田斉泰の代に白銀師(細工人)として登用され、登用され2人扶持を給された。
横谷宗珉の彫法を金沢にもたらした。
藩主御用の刀装具を命じられ、その上達が極めて著しく、「加賀宗珉」と呼ばれるほどの名工として知られた。
その技術は「能く堂奥に達し、鏨痕優麗瀟洒」(装剣奇賞)と伝えられている。
明治6年、明治政府は万国博覧会への初の公式参加であるウィーン万国博覧会に出品する作品を、金沢の金工家に対して金工作品を注文する。
これを制作するために金工家集団が結成され、山川孝次は山尾次六、水野源六、平岡忠蔵、鈴木嘉平とともにその棟取を努めた。
これを母体として、明治10年に銅器会社(社長・長谷川準也、後に金沢銅器会社と改名)が創立された。
金沢の金工を世界に知らしめることになる。
山川孝次はこの会社の棟取としても活躍し、宮内省ご用達、内外博覧会作品の制作も監督しただけでなく、彼本人の名前で明治9年フィラデルフィア万国博覧会では「銅器」の出品で受賞し、明治10年第一回内国勧業博覧会では「金沢銅器工」として鳳紋賞牌を受賞している。 
江戸末期の金工で、特に彫金の加賀象嵌の名工として知られている。 

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