堆朱楊成の詳しい説明と 買取

南北朝時代から現代まで続く彫漆工で、室町時代以降、堆朱の技法を伝えた家系の世襲名。
南北朝時代初期の延文年間(1356~1361)に、足利義詮に仕えた長充を始祖とする。
初代の堆朱楊成の出生は不明だが、足利氏の臣で1360年初めて堆朱を作ったことが有名である。
その作品が中国元代の彫漆の名工張成と楊茂の作に劣らぬということから、両者の一字をとって、その子孫も代々楊成を名のった。
2代長辰は足利義政に仕えており、この頃より茶器を作り始めたと言われている。
3代長貞、4代長嗣、5代長繁、6代長房と続き、7代長親は豊臣秀吉に仕えて茶器を制作していることが記録に残っている。
これを、難波彫りといい、現在でも非有名な彫り技術のひとつとなっている。
のち鎌倉に移住した。
8代長宗は江戸の神田小川町に住んで徳川家に仕えた。
彫漆に厚貝、青貝を入れるという斬新な技術が評判を呼び、堆朱楊成の名声を上げた。
青貝を用いたその作品は鎌倉堆朱とよばれ、堆朱平十郎と同一人とも考えられている。
この頃より江戸に出ており、堆朱楊成の活動は江戸を中心となった。
9代は長善。
10代長是が綱吉の堆朱師として幕府細工所に召し出されてからは、代々徳川家の御用を勤めた。
18代国平まで続き、日光東照宮の修理など重要な地位での仕事を受け持つようになる。
しかしながら、明治維新で中絶、明治維新で一時廃業に追い込まれる。
19代経長(18代の長男好三郎)が、堆朱技法を研究、復興に向け尽力。
再興を図って弟の豊五郎(1880~1952)に引き継いだ。
20代豊五郎が、1896年(明治29)に襲名、1907年はじめて東京府勧業博覧会へ彫漆香合3点を出品して2等賞を受領し、宮内省御用品となった。
1928年緑綬褒章受章、1933年帝展審査員となり、1937年より文展に出品。
1946年より日展に出品し、1949年(昭和24)芸術院会員となる。
内外の展覧会に新たなくふうを加えた作品を出品するなどして大いに活躍した。
21代が現在修行中。

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