堆朱楊成の主な出来事や彫漆工芸作品の年表と 買取

初代 長充
生没年は不詳。
足利氏の臣で1360年に初めて堆朱を作った。
楊成と号した。
中国に始まった漆芸技法・堆朱を初めて日本に採りいれ、優れた作品を多く生み出したため、
唐の名工 張成、楊茂の名をあわせた「楊成」の名を将軍家から賜ったと言われる。

2代 長辰
足利義政に仕えながら技術を受け継ぐ。
応永から嘉吉時代に存命した。

3代 長貞
2代同様に足利義政に仕えた。
茶器を作っていた。
長享年間に死去した。

4代~6代 記録がほとんど残っていない。技術は受け継がれていた。

7代 長親
豊臣秀吉に仕え、茶器を作る。
7代の作る茶器を難波彫と言われ、高い評価を受けた。
元和時代に鎌倉で死去。

8代 長宗
作品は彫漆に厚貝、青貝等を入れ彫りこむ、新たな作風が特徴である。
1654年、8月24日に死去。

9代 名は不明。
長善承応時代に楊成を継いだ。
1680年、8月13日に死去。

10代 長是
徳川綱吉に仕える。この代から徳川家に仕える。
1719年、4月26日に死去。

11代 長盛
1719年、継ぐ。
1735年、9月30日に死去。

12代 長韻
1735年、継ぐ。
1765年、5月22日に死去。

13代は長利
1765年、継ぐ。
1779年、10月24日に死去。

14代は均長
1780年、継ぐ。
1791年、6月23日に死去。

15代 長蔭
1791年、継ぐ。
    西丸御開の折、堆朱中央卓の制作を命じられた。
1812年、2月2日に死去。

16代 長英
1811年、継ぐ。
1848年、11月8日に死去。

17代 長邦
1820年、継ぐ。
    時代の変革期であり、晩年に剃髪。号を浄友とした。
1858年、8月11日に死去。

18代 国平
1860年、継ぐ。
1862年、日光東照宮の修理に携わるが、明治維新の影響で一時廃業。
1890年、3月8日に死亡。

19代 経長
1866年、12月に18代の長男として生まれる。通称、好三郎。
    堆朱技法を研究し、明治維新で廃業した堆朱の再興を計る。
1896年、11月8日に死亡。

20代(1880~1952年)
1880年(明治13年)、18代・楊成堆朱平十郎の次男として生まれる。
          幼名は豊五郎。漆と彫技を兄である19代に学ぶ。
          絵画は佐竹永湖、彫技は石川光明に学ぶ。
1896年(明治29年)、兄の死去により、20代堆朱楊成を襲名する。
          彫漆を継承した。
1907年(明治40年)、東京府勧業博覧会に、彫漆香合3点、初出品。
          2等賞を受領。宮内省御用品となる。
          その後も帝展や文展、日展に出品し、多数の賞を受賞する。
1921年(大正10年)、農商務省第9回工芸展にて1等賞受領。
1925年(大正14年)、パリ博覧会へ出品、受賞
1928年(昭和3年) 、我国工芸美術の発達に寄与せし理由により緑綬褒章を受章する。
            東京府主催、東京工芸展覧会審査員となる。
1929年(昭和4年)、 第10回帝展「天狐彫漆香盆」出品。無鑑査となる。
1933年(昭和8年)、 第14回帝展、審査員となる。
          その後逝去する年まで出品をつづけ、審査員をつとめた。
1939年(昭和14年    、 ニューヨーク万博へ出品、受賞
1950年(昭和24年)、日本芸術院会員となる。
1951年(昭和25年)、日展参事及び審査員となる。
1952年(昭和27年)、第8回日展「巻狩彫漆手筥(未完成)」出品審査員となる。
          11月3日逝去。享年72歳。

21代(現在)
高い技術と伝統が受け継がれている。

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