高村豊周の詳しい説明と 買取

明治23年(1890)、高村光雲の三男として東京に生れた。彫刻家で、詩人の光太郎は長兄にあたる。18歳で津田信夫に入門し、大正4年東京美術学校鋳造科本科を卒業した。東京美術学校在学中、光太郎作「光雲還暦記念像」の鋳造を手がけた。岡田三郎助や長原孝太郎、藤井達吉らと装飾美術家協会や、卒業後は「无型」(大正15年)や「実在工芸美術会」(昭和10年)などグループを組織し、それらのグループを通じて長年工芸の近代化運動に没頭した。

昭和8年(1933)には東京美術学校教授、昭和24年(1949)に金沢美術工芸専門学校教授、さらには日展運営会参事、日本芸術院会員など様々な大役を歴任し、後進の指導にも尽力をした。伝統的な技法を駆使した簡潔・清新な造形で鋳金界に新指針を示した。鋳金界にあって造型のフレッシュさと、惣型・込型・蠍型など伝統的な技法の駆使によって斯界の大御所的存在であり、鋳造家協会長をつとめた。殊に晩年の回転体による円壷の成形は余人の追随を許さぬ至芸であった。

代表作に小諸懐古園の「藤村詩碑」をはじめ、「斜交紋花筒」(昭和3、帝展特選)「提梁花瓶」(昭和22、日展出品、政府買上品)などがある。また歌人としても活躍した。美校在学中、与謝野鉄幹・晶子夫妻に師事して短歌を学び、「露光集」「歌ぶくろ」「おきなぐさ」などの歌集や「光太郎回想」「自画像」などの著書がある。鋳金家、日本芸術院会員、重要無形文化財(人間国宝)保持者。享年81歳。

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