本間琢斎の詳しい説明と 買取

新潟県佐渡の有名鋳金家。
初代琢斎(江戸後期~弘化4年)は、原得斎の長男として現在の柏崎市大久保に生まれた。当時の佐渡奉行の委嘱によって、初めて蝋型鋳造の技術によって大砲を製造した。後に松代藩士にして思想家・兵学者である佐久間象山の教えを受けて、洋式の大砲も手がけた。江戸にて小幡道斎に蝋型の技術を学んだ後に帰省し、維新後には、蝋型鋳金工芸の技術を駆使し、花瓶や灯篭などの美術品、工芸品の制作を開始した。中でも琢斎の作品でよく使われる代表技術が「斑紫銅」といわれる紫の模様を浮かび上がらせる伝統技法である。表面に不規則な形をした紫の模様が浮かび上がる着色技法を施した作品を多く作った。この技法は、今でも代々受け継がれている伝統技法であり、その技術は六代目に及ぶ現在まで脈々と継承されている。また、多くの鋳金家に影響を与え、旧佐和田町を中心に広まり、宮田藍堂(初代)、佐々木象堂(人間国宝)などの作家が出て、活躍した。佐々木象堂は、1960年に重要無形文化財蝋型鋳金技術保持者(人間国宝)に認定された鋳金家。明治中期に宮田藍堂の門下となって蝋型鋳金を学び、「鋳銀孔雀香炉」「金銅鳳凰置物」など、数多くの優れた工芸品を残して1961年に亡くなった。

新潟が誇る蝋型鋳金家、本間琢斎の制作する作品は、茶道具、文具、華道具、置物など多岐に渡るが、どれも見るものを魅了する素晴らしい作品が多く、国内のみならず海外でも高い人気を誇る。

鋳金(ちゅうきん)とは、鋳型に金属を溶かして流し込み、彫刻や器物を作り上げる工芸手法のこと。その中でも特に、佐渡に伝わる歴史ある技術が、鑞型鋳金(ろうがたちゅうきん)である。蜜鑞で原型を作り、その上を粘土で覆い、粘土が乾いたら火をかけて鑞を溶かす。それを火にかけて蝋を溶かし、空洞になった部分に銅合金(銅・鉛・亜鉛・錫)を流し込んで原型と同じ形のものを作る。固まったところで鋳型を外して、仕上げに着色すれば完成。 熱にすぐ溶ける蝋の特性を存分に生かした蝋型鋳金は、その美しさも含めて比類なき工芸品といえる。一つの原型からは一つの作品しか作ることができず、貴重である。1978年には新潟県無形文化財工芸技術にも指定された。

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