樂吉左衛門の主な出来事や陶芸作品の年表と 買取

初代 樂吉左衛門(長次郎) 〜天正17年(〜1589)
楽焼の創設者である中国出身の父(あめや)と母(比丘尼)の間に生まれ、
樂家の代名詞ともなる黒釉をかけた茶碗の作製において非常に優れた技量を見せる。
没後、長次郎の妻の祖父(田中宗慶)が豊臣秀吉から聚楽第の一字を取った
「樂」の黄金の印を与えられる。

二代 樂吉左衛門(常慶) 永禄4年〜寛永12年(1561〜1635)
田中宗慶(長次郎の補佐役と目される)の次男で、初めて吉左衛門を名乗る。
織部好みの大降りでゆがみのある沓茶碗や、土見せ高台等の新しい作行を積極的に取り入れる。
赤黒の二釉に加えて「香炉釉」と呼ばれる白釉の使用を始める。
本阿弥光悦と交流があった。
徳川家2代将軍・徳川秀忠より拝領した樂印を用いる。

三代 樂吉左衛門(道入) 慶長4年〜明暦2年(1599〜1656)
常慶の長男で、別名を「ノンコウ」または「ノンカウ」という。
楽焼の名人で、樂家の釉薬の技法を完成させた。
初代・二代とは異なる朱色や黄色等の多数の釉薬を用いる明るい作風が特徴。
本阿弥光悦とも親交が深く、影響を受けたと考えられる。

四代 樂吉左衛門(一入) 寛永17年〜元禄9年(1640〜1696)
三代道入の長男。
初代長次郎を模範としつつ、父の技法を取り入れ、地味な色調の中に光沢を持つ作風が特徴。
黒釉に朱色の釉薬が混ざり合う鮮やかな「朱釉」を完成させる。
妻の妙入も陶技を嗜んで「尼焼」を焼き、紀州徳川家に献上する。
元禄4年、宗入に家督を譲って隠居し、「一入」と号する。

五代 樂吉左衛門(宗入) 寛文4年〜享保元年(1664〜1716)
四代一入の婿養子で、尾形光琳や乾山の従兄弟。
元禄4年(1691)、28歳の時に五代吉左衛門を襲名する。
宝永5年(1708)、左入に家督を譲って隠居し、「宗入」と号する。
長次郎の作風に深く傾倒し、錆びた鉄肌を思わせる「カセ釉」を創案、
ノンコウにおいて得た滑らかな黒釉は再び光沢を失う。
モダンな装飾は消され、茶碗の寸法も小さくなり、重厚な存在感が感じられる。
樂印は「くずれ印」と称され字体がはっきりとしない。

六代 樂吉左衛門(左入) 貞享2年〜元文4年(1685〜1739)
大和屋嘉兵衛の次男で、五代宗入の婿養子。
宝永5年(1708)、六代樂吉左衛門を襲名する。
享保13年(1728)、長入に家督を譲って隠居し、「左入」と号する。
「光悦写し」の茶碗に定評がある。
表千家社中に配られた代表作に「左入二百茶碗」がある。
妻の妙修も陶技を嗜んで「妙修焼」と称し、紀州徳川家に献上する。

七代 樂吉左衛門(長入) 正徳4年〜明和7年(1714〜1770)
六代左入の長男。
享保13年(1728)、七代樂吉左衛門を襲名する。
元文3年(1738)、長次郎百五十回忌に赤楽茶碗を150碗制作する。
宝暦12年(1762)、得入に家督を譲って隠居し、長次郎の「長」から「長入」と号する。
長男の得入は体が病弱の為、隠居後も作陶を支える。
茶碗は厚手で量感が感じられる大らかな作行が特徴。
樂家の中でも作陶生活が長く、茶碗以外にも香合や花入れなど多数の作品を制作し、
細工物に関しては歴代随一とされ、代表作に「日蓮像」がある。

八代 樂吉左衛門(得入) 延享2年〜安永3年(1745〜1774)
七代長入の長男。
宝暦12年(1852)、父の隠居に伴い八代樂吉左衛門を襲名するが、
病弱で、父の助けを受けて作陶を行った為、長入の作風が強く窺われる作品が多い。
明和7年(1770)、父の死後、弟に家督を譲り隠居する。
「佐兵衛」と改名して、その後も制作を続けるが30歳で早世。
寛政10年(1798)、二十五回忌の時に「得入」と賜号され、正式に歴代の中に入る。
歴代の中でも最も作品が少ないが、黒楽茶碗に玉を三つ彫って金彩を施した「玉の絵黒茶碗」は有名で、
「得入の得(徳)」と縁起を担いで珍重されている。

九代 樂吉左衛門(了入) 宝暦6年〜天保5年(1756〜1834)
七代長入の次男。
明和7年(1770)、九代樂吉左衛門を襲名する。
安永年間(1772~81)に赤黒樂茶碗を200碗制作する。
寛政元年(1789)、長次郎二百回忌には赤樂茶碗を200碗制作する。
「三代以来の名工」とされ、へら削りの巧みな造形に特徴がある。
文政8年(1811)、旦入に家督を譲って隠居し、「了入」と号する。
文政元年(1818)、赤黒樂茶碗を50碗制作し、了々斎より「翫土軒」の額を授かって号とした。
文政2年(1819)、旦入と紀州徳川家御庭焼に従事する。
文政8年(1825)、近江国石山に隠居し、悠々自適の生涯を送る。
古希を記念して赤黒樂茶碗を70碗制作する。
妻の妙詠も陶技を嗜んで「尼焼」の茶碗や香合を紀州徳川家に献上する。

十代 樂吉左衛門(旦入) 寛政7年〜嘉永7年(1795〜1854)
九代了入の次男。
文化8年(1811)、十代樂吉左衛門を襲名する。
文政2年(1819)、表千家九代了々斎と共に紀州徳川家に伺候、御庭焼の「偕楽園窯」開設に貢献する。
その後「西の丸お庭焼き」「湊御殿清寧軒窯」などの開設にも貢献した功績により、
文政9年(1826)、徳川治宝より「樂」字を拝領し、大小二つの「拝領印」とした。
天保9年(1838)、長次郎二百五十回忌に黒樂茶碗を250碗制作し、
表千家十代吸江斎宗左から授かった「行書印」を用いた。
弘化2年(1845)、慶入に家督を譲って隠居し、「旦入」と号する。
作風は織部焼、伊賀焼、瀬戸焼などの作風や意匠を取り入れ、技巧的で華やかとされる。

十一代 樂吉左衛門(慶入) 文化14年〜明治35年(1817〜1902)
丹波国の酒造家・小川直八の三男で、十代旦入の婿養子。
弘化2年(1845)、十一代樂吉左衛門を襲名する。
嘉永7年(1854)、御所炎上で類焼したが、3年後には樂家を新築する。
安政3年(1856)、西本願寺御庭焼(露山窯)に従事し、西本願寺21世明如光尊より「雲亭」の号と「雲亭印」を授かる。
明治4年(1871)、弘入に家督を譲って隠居し、「慶入」と号する。
明治23年(1890)、長次郎三百回忌の茶会を催す。
明治維新後の茶道低迷期の中、旧大名家の華族に作品を納めるなど家業維持に貢献した。

十二代 樂吉左衛門(弘入) 安政4〜昭和7年(1857〜1932)
十一代慶入の長男。
明治4年(1872)、十二代樂吉左衛門を襲名する。
明治23年(1890)、長次郎三百回忌に赤樂茶碗を300碗制作する。
この時、表千家十一代碌々斎宗左の筆による「草樂印」を使用した。
茶道衰退期のため若いときの作品は少なく、晩年になって多数の作品を制作する。
大胆なへら使いで黒樂の幕釉を得意とする。
大正8年(1919年)、惺入に家督を譲って隠居し、京都本邸と九代の別荘であった滋賀県石山を往復し、優雅な晩年を送った。

十三代 樂吉左衛門(惺入) 明治20年〜昭和19年(1887〜1944)
十二代弘入の長男。
大正8年(1919)、十三代樂吉左衛門を襲名する。
歴代中最も熱心に釉薬や技法の研究を行い、また、樂家家伝の研究を行う。
昭和10年〜昭和17年にそれらの研究結果を雑誌「茶道せゝらぎ」を刊行して発表する。
昭和16年(1941)、長次郎三百五十回忌を催す。
晩年に太平洋戦争が勃発し、跡継ぎである長男も応召され、物資不足の中で研究も作陶も困難となり、閉塞する中没した。

十四代 樂吉左衛門(覚入) 大正7年〜昭和55年(1918〜1980)
十三代惺入の長男。
昭和15年、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科を卒業する。
卒業後、召集され従軍。
終戦後生還し、昭和21年に十四代樂吉左衛門を襲名したが、前年に父が死去し、茶道も低迷期を迎える。
昭和34年に高松宮妃殿下の筆による「樂」字を拝領し、大小二つの樂印とした。
昭和35年以降好景気となり、作品が充実するようになる。
他代には見られない、彫刻の理論を生かした立体的造形が特徴。
昭和51年、無形文化財保持者に認定される。
昭和53年、樂家歴代史料を基に「財団法人樂美術館」を設立する。
没後、表千家より「覚入」の号を諡号される。

当代
十五代 樂吉左衛門  昭和24年〜(1949〜)
十四代覚入の長男。
京都府立朱雀高等学校、東京芸術大学彫刻科卒業後、昭和48年にイタリアローマ・アカデミア留学。
昭和56年11月に十五代樂吉左衛門を襲名する。
昭和62年、日本陶磁協会賞を受賞。
昭和63年、長次郎四百回忌を催す。
平成3年、京都美術文化賞を受賞。
平成4年、日本陶磁協会賞金賞を受賞。
平成5年、MOA岡田茂吉優秀賞を受賞。
平成9年、織部賞を受賞。
平成10年、毎日芸術賞を受賞。
平成12年、フランス政府より芸術文化勲章・シュヴァリエを受章。
平成13年、京都府文化賞功労賞を受賞。
平成18年、MOA岡田茂吉大賞を受賞。
平成19年、京都市文化功労賞を受賞。
滋賀県守山市の佐川美術館に「樂吉左衛門館」を新設。
京都市文化功労者として顕彰を受ける。
「焼貫」の技法を駆使した大胆な箆削りによる前衛的な作風を確立し、日本国内外で数々の賞を受賞しており、
「陶芸作家」としての評価も高い。

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