本間琢斎の主な出来事や金工作品の年表と 買取

初代 本間琢斎(1812年~1891年)
越後の刈羽郡大久保村(現柏崎市)生まれ。文平と称した。
父は、釜や鍋などの銅器鋳物師、原得斎でその長男として生まれた。
幼にして家業を嗣ぎ、江戸で小幡道斎から蝋型の手法を習う。
1824年 16歳の時、鑞型鋳金の技術で初めて蝋型鋳銅器の文房具・茶器を作成した。
その後 家督を弟・三男良助にゆずって佐渡に渡り、五十里篭町(現佐渡市沢根篭町)の本間家を嗣いだ。
1847年 佐渡奉行・中川飛騨守琢斎から招致され大砲鋳造を行う。大砲数十門鋳造し、奉行から称賛・賞典を受けた。
文久年間 洋学者佐久間象山を信州松代に訪ね教えを請うて、柏崎で新式砲数門を製造した。
1854年 明治維新後、日米・日英・日露和親条約の締結により大砲造りは必要なくなった。沢根篭町の本間六兵衛家へ入婿し、鋳造業を開始。梵鐘・灯篭・花瓶・文房具等制作をはじめた。専ら美術工芸としての鑞型鋳銅器(花瓶・文房具・仏具・香炉等)の製作に力を入れた。彼の独創になる斑紫銅(酸化膜を出す方法)の製品は凛とした美しさと精巧な技術を高く評価され、内外の博覧会で数多くの賞を受けた。こうして佐渡の鑞型鋳金は、彼の活躍によりその基が築かれ、明治から大正にかけ最も栄えた。

二代 本間琢斎(1846~1904)
初代が開発した蝋型斑紫銅の技術は、二代に受け継がれた。

三代 本間琢斎(1868~1904)
明治元年に新潟県 佐渡に生まれる。二代本間琢斎に師事する。繊細な線の出る蝋型鋳金の技法を用い紫がかった斑紫銅を使いなんとも言えない風合いを醸し出し、その作品は各種展覧会や博覧会に出品、数多くの賞を受賞している。

四代 本間琢斎(1893~1967)

五代 本間琢斎(1922~2001)
初代琢斎以来の斑紫銅鋳造技術を忠実に守り伝え、制作に励んだ。

六代 本間琢斎
五代本間琢斎の長男・琢治が6代本間琢斎斎として鑞型鋳金の技術を継承している。

琢斎を祖流とする佐渡の鋳銅作家には、彼に師事した二代本間琢斎の他に、初代宮田藍堂(1855~1919)や真藤玉真、清水湘斎、三浦研斎、土屋宗益らの各作家があり、さらに初代宮田藍堂門下には、人間国宝の佐々木象堂がいる。

佐々木象堂(1884~1961)
長らく中央工芸界で活躍し、帝展、文展審査員を歴任し、伝統的な鋳金技術に近代的な造形の手法をマッチさせた品名を数多く残した。
昭和35年、重要無形文化財技術保持者として認定された。

二代宮田藍堂(1902~1988)
佐渡で初代琢斎以来の伝統を受け継いだ技術保持者の3人のうちの一人。
佐々木象堂に師事し、鑞型鋳銅の制作に打ち込み、帝展文展・日展等の他、チリ・シカゴの日本工芸展・日ソ展等にも出品し、数度受賞した。その作風は初代の追従を避け、日本古代の造形美に現代感覚を盛り込むことに努めていた。又

池田逸堂(1914~1999)
宮田藍堂の弟子で、佐々木象堂にも師事し、文展日展・日本伝統工芸展に数多くの入選を果たした。

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