森川杜園 買取

森川杜園は春日有職奈良人形師で、簡単な刀法で写実感を示す独自の彫技を考案、奈良一刀彫の祖となる。
正倉院宝物や古美術品の模作にも力を注ぎ、江戸期の職工から近代の彫刻家への過渡的存在の大切な彫刻家。

日本一、歴史ある京都祇園骨董街にあります。

京都は千年も続いた都です。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
約80軒の古美術骨董商が軒を連ねる、
日本でもトップの祇園骨董街にある老舗の骨董店です。

京都祇園で小売販売している老舗骨董店だからこそ高価買取出来るのです。

世界各国から1日100名近くのお客様がご来店頂いております。
店頭には買取商品を常時2000点以上展示販売しており、愛好家やコレクターの方が品物の入荷をお待ちです。

買取依頼のお客様に納得して頂くことを第一と考えております。

ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
是非、ご来店頂くか、ホームページをご覧下さい。
京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。

京都美術倶楽部大阪美術倶楽部鴨東古美術会京都古書組合東京古書組合に加盟しております。

森川杜園の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス

森川杜園(もりかわ とえん)・特徴と技法

森川杜園買取

蘭陵王

1820年(文政3)~1894年(明治27)75才没。
 
奈良出身の江戸後期から明治時代に活躍した 彫刻家
13歳のころから絵画を内藤其淵に学び、奈良人形の制作を始め、狂言も習った。
幼年からの多才さが、木彫り 作品にも独自の 作風 を生み出したと高く評価される。
16歳で既に名を馳せ奈良奉行に絵の御用を命じられた。
18歳で岡野保伯に刀法を学び奈良人形を造り、奈良 一刀彫 の祖と言われている。
簡単な刀法で 写実 感を示す独特の彫る技法に新機軸を考案して1856年(安政3年)春日有職奈良人形師となった。
1877年(明治10年) 第1回内国 勧業博覧会 に「蘭陵王」「鹿」を出品。
1881年 (明治14年)第2回内国勧業 博覧会 には『竜灯鬼』を出品。
能、狂言を題材とする作品のほか、鹿を得意とした。
明治天皇に献上した舞楽納蘇利 置物・法隆寺九面観音模像等の傑作がある。
代表作品に「竜灯鬼」「大立鹿」「御生玉伏白鹿座像」「親子鹿」「融」がある。
 

森川杜園の作品  作風と買取価格のワンポイント

森川杜園の豊かな彩色木彫で、写実感を示す卓越した造形力の逸品は高価買取させて頂きます。
出品作品や独特の彫技で制作された、森川杜園の晩年の名品が高価買取対象です。
簡単な作品から時間をかけた力作、またデザインや種類により買取価格は変わってきます。

正倉院宝物 や古彫刻の模作にも従事し、晩年は帝国博物館の委嘱で、東大寺や法隆寺の仏教 彫刻 の模刻に妙技を発揮、文化財 保護にも貢献した。
 

 

 

森川杜園の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。

森川杜園は江戸時代の人物なので数が少ないのですが、購入された時から入っている箱(共箱)は大切な箱です。
共箱には森川杜園の自筆のサインと 落款 が押されています。
共箱 は、保証書も兼ねており、有る・無しで、買取価格は大きく変動します。

シミや汚れがある場合でも、現状のままお持ちください。

鑑定書 の有無に関わらず、まず当店で無料の 真贋 の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。
一般的に絵画の 鑑定 は、美術俱楽部やそれぞれの指定された 鑑定機関 で行われており、その場合、真贋を問うだけで、約3万円~5万円かかり、有料です。

【所定鑑定人・鑑定機関

森川杜園の場合、鑑定機関はありません。

 

当店では高額な作品も扱っております、一例ですがご覧ください。
お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。

森川杜園をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。

当店には森川杜園の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
森川杜園の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ、適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。

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森川杜園 略歴

森川杜園買取

仁王

奈良の生まれで、幼名は友吉、のち扶疏。は杜園、奈良木偶師。
奈良人形中興の祖。
生家は奈良で紀州藩(和歌山県)の銀方御用を務める一方、米穀商や公事宿を営んだ。
手先が大変器用で、13歳のころから絵画を内藤其淵に学び、のち 彫刻 に転じ、奈良人形師の松寿恒徳の刀風を参考に 一刀彫 を独習。
16歳で奈良奉行に絵の御用を命じられた。
その画工としての才能を見込んだ、時の奈良奉行・梶野土佐守良材から、「扶疏」の名と、「杜園」の を与えられる。
1836年(天保7)、17歳のとき、「杜園」の号を用いるようになった。
奈良人形・一刀彫との結びつきは、柴田是真との出会いにはじまる。
柴田是真(1887~1891)は、著名な漆芸家で、杜園の号をもらった天保7年、柴田是真と出会った杜園は、是真に奈良人形・一刀彫という木彫への道を薦められる。
彫技を始めた杜園は、めきめきとその天分、力量を発揮し、奈良人形・一刀彫の制作者として名を成していった。
18歳で春日神社の古材で作る彩色木彫の奈良人形の制作を学び始めた。
同時に、狂言の道にも足を踏み入れ、1842年(天保13)には、23歳で大蔵流狂言師・山田弥兵衛を 襲名 するに至る。
1855年 (安政2) の頃、春日大社若宮の大宿所前絵師職となり、1856年、春日有職奈良人形師を命じられ、奈良一刀彫の名人として名を揚げた。
簡単な刀法で 写実 感を示す独特の彫技に新機軸を発揮し、奈良一刀彫の祖ともされる。
「蘭陵王」など、鹿や能・狂言に取材した 木彫り 作品にすぐれ、動物、ことに鹿の制作に巧みである。
また古い仏教彫刻の模作にもすぐれ、明治になってからは正倉院御物 (現宝物) の模造にも従事した。
杜園が、模写・模造を行うようになるのは、明治に入って50歳を過ぎてからのことである。
明治5年(1872)、町田久成、蜷川式胤等によって、壬申宝物検査が行われた。
正倉院 の勅封を開封し、宝物の調査が初めて実施され、宝物の写真撮影と共に、模写も行われた。
東京からは、写真師・横山松三郎、油絵師・高橋由一等が同行していたが、奈良在住の森川杜園も画技が評価され、依頼を受けて、この宝物検査の「古物写し」に参加することになった。
これに続いて、明治7年(1874)、奈良博覧会会社が設立され、その事業の一環として古器物の模写・摸造が実施されるようになると、杜園は、模写だけでなく、古 彫刻 の模造にも携わるようになる。
明治6年には、正倉院宝物香木「蘭奢待」の模造を、明治8年には、「如意輪堂の扉」を模造しており、このあたりが、杜園の模刻の始まりとされる。
1875年(明治8)には吉野如意輪堂の扉を模造、古彫刻の模作にも長じる。
1877年(明治10)第1回内国 勧業博覧会 に「蘭陵王木偶」「鹿の置物」を出品。
1881年(明治14)第2回内国勧業博覧会には「竜灯鬼」を出品して妙技一等賞を得た。
模造制作は、奈良 博覧会 会社や文部省博物局からの依頼によるものも多かったようだが、杜園自身も、この頃から模造制作に仕事の重点を大幅にシフトしていったようである。
1887年(明治10)以降、仏教美術関係の模造の制作に、精力的に取り組んだ。
1892年には法隆寺九面観音像を模し、町田久成に認められ、正倉院宝物の模造にも従事し 伝統 的彫技を振るった。
1893年、73歳の老齢で、シカゴ万国博覧会用に制作した「牝牡の鹿」は 晩年 の大作として 著名
一面、古彫刻の模作にも長じ、1875年には吉野如意輪堂の扉を模造、1892年には法隆寺九面観音像を模し、町田久成に認められて正倉院宝物の模造にも従事、死の直前まで 伝統 的彫技を振るった。
地方作家としては珍しい存在であった。
1894年(明治27)死去、75才。その生涯を奈良で過ごした。
辞世は、「罷出て あらぬ手業を世に残し さも恥ずかしと 身は隠れつる」彼の作品には 名品 が多く、明治天皇に献上した舞楽納蘇利 置物・法隆寺九面観音模像等の傑作がある。
正倉院宝物や古彫刻の模作にも従事し、江戸期の職工から近代の 彫刻家 への過渡的存在として重要である。
晩年は 帝国 博物館の委嘱で、東大寺や法隆寺の仏教彫刻の模刻に妙技を発揮した。
また和歌を伴林光平に学び、狂言・点茶等も能くした。
1842年には、大蔵流狂言師山田弥兵衛を 襲名 している。
自ら「三職」と称したが、木彫だけではなく、多方面に超一流の技量を誇った。
「三職」とは、絵画、狂言、奈良人形のことを指しており、それぞれに名人であった、マルチアーティストといえる人物である。
20歳過ぎの若くして、絵画、奈良人形、狂言という三職それぞれに一流として名を成すまでの域に達した。
杜園の奈良人形の作品は、「高砂」などがよく知られているが、多くは題材を狂言にとったもので、見事な彩色がなされている。
「彫芸と絵画・狂言とが一体化し、精神性、芸術性ある表現に統合・昇華されていったものである。」とよく言われている。
明治17年(1884)発行の「大和名勝豪商案内記」にみえる杜園の店頭の図には、「春日有職一家、寧楽木偶司、但古物模造専一トス」と記されており、模刻中心の仕事ぶりであったことが伺える。
老境に達するにかけて、模造・模刻の世界に傾倒していった。
一言でいえば「古雅」を目指した芸術家で、奈良人形・一刀彫の世界も、模造・模刻の世界でも、伝統的な情趣ある「古雅」を追い求める、「三職」の 彫刻 芸術家であったとされる。

森川杜園の主な出来事や作品の年表

1820年 奈良に生まれる。
幼名は友吉、のち扶疏、杜園は
1833年 13歳のころから絵画を内藤其淵に学び、
1836年 16歳で奈良奉行に絵の御用を命じられた。
17歳のとき、「杜園」の号を用いるようになった。
1828年 18歳で春日神社の古材で作る彩色木彫の奈良人形の制作を学び始める。
1842年 23歳で、大蔵流狂言師山田弥兵衛を 襲名
1856年 春日有職奈良人形師となった。
簡単な刀法で 写実 感を示す独特の彫技に新機軸を発揮し、奈良一刀彫の祖ともされる。
「蘭陵王」など、鹿や能・狂言に取材した木彫作品にすぐれ、動物、ことに鹿の制作に巧みである。
1872年 (明治5)町田久成、蜷川式胤等によって、壬申宝物検査が行われ
宝物の写真撮影と共に、模写 も行われた。
奈良在住の森川杜園も、依頼を受けて、
この宝物検査の「古物写し」に参加することになった。
1875年 吉野如意輪堂の扉を模造、古彫刻の模作にも長じる。
明治6年には、正倉院 宝物、香木「蘭奢待」の模造を、
明治8年には、「如意輪堂の扉」を模造しており、このあたりが、杜園の模刻の始まりとされる。
1877年 (明治10)第1回内国 勧業博覧会 に『蘭陵王』『鹿(しか)』
1881年 第2回内国勧業博覧会には『竜灯鬼』を出品して妙技一等賞を得た。
1887年 (明治10)以降、仏教美術関係の模造の制作に、精力的に取り組んだ。
1892年 法隆寺九面観音像を模し、町田久成に認められ、
正倉院宝物の模造にも従事し伝統的彫技を振るった。
1893年 73歳の老齢で、シカゴ万国博覧会用に制作した『牝牡の鹿』は 晩年 の大作として 著名
内国勧業博、シカゴ万博などで受賞
1894年 (明治27)死去、75才。

代表作は「竜灯鬼」生家は奈良で紀州藩(和歌山県)の銀方御用を務める一方、公事宿を営んだ。
彼の作品には 名品 が多く、明治天皇に献上した舞楽納蘇利 置物・法隆寺九面観音模像等の傑作がある。
正倉院宝物や古彫刻の模作にも従事し、江戸期の職工から近代の 彫刻家 への過渡的存在として重要である。
晩年 は帝国博物館の委嘱で,東大寺や法隆寺の仏教彫刻の模刻に妙技を発揮した。
また和歌を伴林光平に学び、狂言・点茶等も能くした。

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寄せ集めの鎧兜ですが骨董品売却依頼を頂き、出張してお譲り頂きました。

写真が4枚あります。くわしくはこちら この 鎧兜 は、江戸時代から明治時代初期頃に作られた 逸品 です。胴丸や腹巻も寄せ集めで、買い求められた時から使用されていた部品ではないと思われますが買取しました。長年時代を経てきた味わいがあり、それぞれの部品は 保存状態 の良い逸品ですが寄せ集めで価格的には安い品物ですが買取しました。採光の加減で白く光っておりますが、ご覧のような 逸品 です。この作品は販売はしていませんがこのような鎧兜は日本の大切な骨董品なので参考に紹介します。 鎧兜の説明を少ししますと、甲冑鎧兜)とは、甲(鎧:よろい)及び冑(兜:かぶと)のことで、胴体部分を守る鎧と、頭部を守る兜からなる防具です。江戸時代に入り、天下泰平の世の中になると、甲冑鎧兜)は、武士の威風を示すための道具になります。実戦での使用がなくなったことで、甲冑鎧兜)には様々な装飾が施されるように。そして、幕末から明治維新の時期においては、武器の進化に追いついていくことができなかった日本式甲冑は、防具としての役割を終えました。このような日本の 金工作品 の歴史を辿る品物なので紹介しました。

 

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