大田垣蓮月 買取

京都生まれの女流歌人で、自作の和歌を刻んだ陶器「蓮月焼」で有名です。
細い線で優しく繊細に書かれた大田垣蓮月の美しい墨蹟は、評価が高く高価買取致します。
幕末から明治の初めに制作された、大田垣蓮月が賛、富岡鉄斎が画を描いた合作はたいへん人気があり、高価買取対象作品です。

日本一、歴史ある京都祇園骨董街にあります。

京都は千年も続いた都です。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
約80軒の古美術骨董商が軒を連ねる、
日本でもトップの祇園骨董街にある老舗の骨董店です。

京都祇園で小売販売している老舗骨董店だからこそ高価買取出来るのです。

世界各国から1日100名近くのお客様がご来店頂いております。
店頭には買取商品を常時2000点以上展示販売しており、愛好家やコレクターの方が品物の入荷をお待ちです。

買取依頼のお客様に納得して頂くことを第一と考えております。

ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
是非、ご来店頂くか、ホームページをご覧下さい。
京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。

京都美術倶楽部大阪美術倶楽部鴨東古美術会京都古書組合東京古書組合に加盟しております。

大田垣蓮月の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス

大田垣蓮月(おおたがき れんげつ)・特徴と技法

1791年(寛政3)~1875年(明治8)85才没。

幕末から明治に活躍した京都生まれの女流歌人、尼僧、陶芸家 です。二度の結婚のうち、夫、子どもなどと次々に死別し仏門に入りました。京都岡崎で生活のため 陶器 作りを始め、急須茶碗など手びねりの 陶器 に自作の歌を釘彫りしたものが「蓮月焼」として文人たちを中心にもてはやされました。また60歳の頃、当時15歳の富岡鉄斎と知り合い、蓮月の和歌に鉄斎が絵を描く合作で、鉄斎の画業を助けるなど、大きな影響を与えたと言われています。

江戸時代後期、京都に生まれました。俗名を誠と言います。
実父は伊賀上野の城代家老藤堂新七郎良聖で、生後すぐ、京都知恩院の坊官、大田垣伴左衛門光古の養女となりました。
7、8歳のころには、丹波亀山松平家に奥詰めとして奉公しました。
1807年(文化4)17歳の時、大田垣家の養子望古と結婚し、一男二女をもうけますが、いずれも夭折。
1815年(文化14)には、望古と離婚。1819年(文政2)、29歳の時、大田垣家の養子古肥と再婚しますが、4年後に病没します。
葬儀の後、養父と共に知恩院で剃髪し、蓮月尼を称しました。
さらに2年後、古肥との間の7歳の娘を失い、1832年(天保3)42歳の時、養父を亡くします。
その後「蓮月焼」の名が高まるようになりました。
岡崎、粟田、大原、北白川などを転々とし、西賀茂の神光院で85歳で死去しました。
和歌は上田秋成、香川景樹に学び、代表作には、「蓮月高畠式部二女和歌集」「海人の刈藻」などの 逸品 があります。

大田垣蓮月の作品  作風と買取価格のワンポイント

太田垣蓮月の美しく流麗な墨蹟作品、掛軸、一行書は高価買取させて頂きます。
中でも、蓮月の和歌に鉄斎が絵を描いた合作作品は、たいへん人気があり、高価買取対象作品です。
自作の歌を彫り付けた「蓮月焼」の急須や茶碗なども高価買取致します。

幼い頃より聡明で、和歌と書に優れていたと言われています。
しかしながら、夫や子らに相次いで先立たれたその前半生は、不遇と言えるものでした。
仏道修業の日々を送りながら手慰みにはじめた作陶ですが、自詠の和歌を釘彫りした茶器は、
質素ながら温和な人柄が伝わる素朴な 作風 で、「連月焼」と呼ばれ京土産として人気を博し、名が知られるようになりました。
また、晩年 歌人として 著名 となっていた蓮月が、まだ若く収入の安定していない鉄斎に、自作の和歌を書した半切を与え、
これに鉄斎が絵を描き合作とすることで収入となるように配慮したことは有名です。
幕末から明治初年にかけて制作された合作が数多く残っています。

偽物も多くありますが、太田垣蓮月は、墨蹟 作家の中でも人気が低迷していない作家で、現在でも人気の歌人です。
若年 の作品よりも、独自の境地を築いた晩年名品 が高価買取対象です。

 

 
略歴
1791年(寛政 3 )京都府生まれです。俗名は誠。
生後10日後に、京都知恩院門跡に勤仕する大田垣光古の養女となりました。
1807年(文化 4 )17歳で、太田垣家の養子であった望古と結婚します。
一男二女を授かるも、いずれも幼くして亡くなりました。
1815年(文化12)夫の太田垣望古が亡くなり、25歳にして寡婦となります。
1819年(文政 2 )望古の死から4年後、太田垣家の養子となった古肥と再婚しました。
1823年(文政 6 )古肥とも死別し、仏門に入ることを決め、剃髪し蓮月としました。
1832年(天保 3 )頃、7歳の娘が亡くなり、42歳の時に養父をも亡くしました。
生まれ育った知恩院を去り、岡崎村(現在の京都市左京区)に移りました。
粟田、大原、北白川などを転々としながら 急須茶碗 などを制作して生計を立てました。
自作の和歌を彫り付けた焼き物が「蓮月焼」と呼ばれるようになり、徐々に名前が知られるようになりました。
60歳の頃には、侍童として同居していた富岡鉄斎を深い愛情で見守り、多大な影響を与えたと言われています。
1875年(明治 8 )85歳で逝去しました。
 

 

大田垣蓮月の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。

大田垣蓮月の作品の場合は、購入された時から入っている箱(共箱)は大切な箱で、共箱には大田垣蓮月の自筆のサインと 落款 が押されています。共箱は、保証書も兼ねており、有る・無しで、買取価格は大きく変動します。

汚れや傷みがある場合でも、現状のままお持ちください。

鑑定証 の有無に関わらず、まず当店で無料の 真贋 の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。一般的に 絵画 の 鑑定 は、美術俱楽部やそれぞれの指定された 鑑定機関 で行われており、その場合、真贋を問うだけで、約3万円~5万円かかり、有料です。

【所定鑑定人・鑑定機関

神光院

当店では高額な作品も扱っております、一例ですがご覧ください。
お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。

大田垣蓮月をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。

当店には大田垣蓮月の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
大田垣蓮月の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ、適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。

古美術やかたの店内写真

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大田垣蓮月 略歴

太田垣蓮月は江戸時代の尼僧で歌人、陶芸家 としても知られている。俗名は誠で、菩薩尼、陰徳尼とも称された。京都の生まれで、父は伊賀国上野の家老、藤堂良聖。生後まもなく京都知恩院門跡に勤士する太田垣光古の養女となった。幼い頃より聡明で、和歌と書に優れ、但馬亀岡城に奥勤めとして奉公し、薙刀などの諸芸を身につけた。

17歳になると太田垣家の養子であった望古と結婚し、一男二女を授かるが、いずれも幼くして亡くなる。その後、主人である望古も亡くなり、25歳で未亡人となる。それから4年ほど経った頃に太田垣家に入家した古肥と再婚し娘を授かるが、その4年後にまたもや主人が亡くなる。葬儀の後、養父と共に知恩院で剃髪を行い蓮月と名乗るようになった。蓮月を名乗るようになってから2年後に7歳の娘が亡くなり、42歳の時に養父を亡くす。

その後は仏道修業の日々を送ることとなる。この頃より手慰みに作陶をはじめ、岡崎、粟田、大原、北白川などを転々としながら急須茶碗などを制作した。自詠の和歌を釘彫りした手づくねの茶器などを売ることで生計を立てた。質素ながら温和な人柄が伝わる素朴な 作風 は「蓮月焼」と称され、京土産として人気を博した。しだいに蓮月焼を求めて訪ねる者が押しかけるようになり、名利を厭う蓮月は人目を避けるため転居を繰り返し、いつしか「屋越しの蓮月」ともいわれるようになった。贋物 が多く出回るようになるが、「自分の模倣品で他者が食えるのなら」と容認していたと言われている。それどころか他者の作った器に蓮月自身が和歌を彫り込んだり、贋作と蓮月自身の作品を混ぜて販売させた事もあったというエピソードもあり、蓮月の人柄を感じさせる。人気が出ても質素な生活を続け、飢饉のときには三十両を匿名で奉行所に寄付したり、資材を投入して賀茂川の丸太町に橋を架けたりした。その後、西賀茂にある神光院に茶所を間借りし、境内の清掃や作陶をしながら日々を過ごし85歳で死去した。別れを惜しんだ人々や西賀茂の住人が総出で弔ったといわれている。蓮月尼老年の侍童、若き富岡鉄斎との交流が有名。穂井田忠友、橘曙覧、野村望東尼ら歌人のほか、維新の志士とも交流した。

大田垣蓮月の主な出来事や作品の年表

1791年(寛政 3 )京都府生まれ。俗名は誠。京都の実父は伊賀国上野の城代家老藤堂良聖。
生後10日にして京都知恩院門跡に勤仕する大田垣光古(もとは山崎常右衛門)の養女となった。
養父(大田垣光古)は因幡国出身で、知恩院の譜代に任じられ、門跡の坊官として世襲が許される身分となった。
太田垣氏は室町時代に因幡、但馬で栄えた山名氏の重臣の子孫である。生母は誠を出産して後に、丹波亀山藩の藩士の妻となった。
この生母の結婚が縁で、寛政10年(1798年)頃より丹波亀山城にて御殿奉公を勤め、10年ほど亀山で暮らした。
養父の光古には5人の実子がいた。そのうち4人は誠が養女になる前に亡くなる。
唯一成人まで成長した末子の仙之助も誠が亀山に奉公していた時期に病没した。
そのため光古は、但馬国城崎の庄屋銀右衛門の四男天造を養子に迎え、望古と名乗らせた。

1807年(文化 4 )太田垣望古と結婚する。誠は、亀山での奉公を終えた1807年ごろに、望古と結婚した。
誠と望古の間には長男鉄太郎、長女、次女が生まれたが、いずれも幼くして亡くなった。
1815年(文化12)夫の太田垣望古が亡くなり、25歳にして寡婦となった。
1819年(文政 2 )望古の死から4年後、誠は新たに大田垣家の養子となった古肥と再婚する。
古肥は旧名重次郎といい、彦根藩の石川光定の次男であった。誠と古肥の間には一女が生まれた。
1823年(文政 6 )古肥と死別した。古肥の死後、誠は仏門に入ることを決め、養父光古と共に剃髪した。
剃髪後は、誠は蓮月、光古は西心とした。

1867年(慶応 3 )神光院で作陶する日々を送る。
蓮月が出家した年に、大田垣家は再び彦根藩より古敦という養子を迎え、知恩院の譜代を継承させた。
その頃、西心は知恩院内の真葛庵の守役を命じられ、蓮月親子と共に庵に移った。
しかしこの生活は長くは続かず、2年後には古肥との間の女児が亡くなり、その後、養父西心までが亡くなった。
養父の死を機に、蓮月は生まれ育った知恩院を去って、岡崎村(現在の京都市左京区)に移った。
その後の蓮月は住居を転々とし、「屋越し蓮月」と呼ばれるほどの引越し好きとして知られた。
1875年(明治 8 )85歳で逝去した。

書の 作風 は、自詠の和歌を穏やかで張りのある墨線で描いた。
茶器などの 陶芸 作品の特徴は、自作の和歌を淡々としたタッチで書き付けられている。
作品はどれも美しく瑞々しいのが特徴である。
侍童として一緒に生活していた著名な作家の富岡鉄斎の人格形成や 作風 にも大きな影響を与えたといわれている。

 

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