奥村土牛 買取

古美術やかたは、奥村土牛の作品を後世に伝えたいとの思いで、半世紀営業してきました。
日本画の伝統技法と西洋画の技法を融合させた土牛独自の画風が高く評価されています。
奥村土牛は柔らかく微妙な色彩で自然を描き、晩年の富士山を描いた作品は高価買取させて頂きます。

【老舗骨董店の一味違う営業実績】
奥村土牛 買取価格のワンポイント
販売から買取の当店ならではの技
作品買取で他店との違いが一目瞭然!
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安心して奥村土牛買取依頼出来る6つの技
奥村土牛作品の種類や説明と鑑定機関

奥村土牛の買取事例や買取価格と作品説明
                     

日本一、歴史ある京都祇園骨董街にあります。

京都は千年も続いた都です。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
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日本でもトップの祇園骨董街にある老舗の骨董店です。

京都祇園で小売販売している老舗骨董店だからこそ高価買取出来るのです。

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買取依頼のお客様に納得して頂くことを第一と考えております。

ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
是非、ご来店頂くか、ホームページをご覧下さい。
京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。

京都美術倶楽部大阪美術倶楽部鴨東古美術会京都古書組合東京古書組合に加盟しております。

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奥村土牛の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス

奥村土牛(おくむら とぎゅう)・特徴と技法

奥村土牛買取

朝陽

明治22年(1889)2月18日~平成2年(1990)9月25日 101才没。

奥村土牛は文化勲章を受章し、現代日本画壇の最高峰に位置した日本画家です。
東京市京橋区南鞘町に生まれ、本名は義三。
画家志望であった父親のもとで10代から絵画に親しみ、明治38年、16歳で日本画家梶田半古の画塾に 入門 し、その塾頭であった小林古径に 師事 する。
写生に重きを置き、主に歴史画から学んだが、並々ならぬ努力を注ぎ描写力において確かな土台を築いた。
明治40年の東京 勧業博覧会 で「敦盛」が入選し、41年、42年の巽画会展でともに褒状を受賞する。明治45年逓信省の為替貯金局統計課に勤務し、ポスターや統計図、絵葉書などを描き、5年間勤務した。この頃は、東西の古典や新しい芸術についても学び、とりわけセザンヌやゴッホなど後期印象派の影響を強く受けた。
22才頃から再び健康状態が優れず、以後約10年間にわたり写生にひたすら励んだ結果、大正6年父の朝陽舎書店から スケッチ 集「スケッチそのをりをり」を出版。またこの年、父が寒山詩の一節「土牛石田を耕す」から引用して、「土牛」というを付けた。
大正15年に古径の紹介で速水御舟の研究会に出席し、刺激を受けた。
昭和2年38歳の時、第14回 院展 に「胡瓜畑」で初入選を果たし、さらに、昭和4年には16回院展において「蓮池」が 日本美術院 院友に推挙されるなど、実績を重ねる。
昭和10年に 帝国美術学校 の日本画家主任 教授 に就任するなど、教育者としても日本の美術界に貢献した。
昭和11年の第1回 帝展 に出品した「鴨」が推奨第一位になり、政府の買上げとなる。
昭和34年の第44回院展に出品した「鳴門」が、現代 日本画 の最高傑作と言われる。
昭和37年に 文化勲章 を受章し、文化功労者 となる。

古径の写生の技法、御舟の構図、横山大観の「朦朧体」のぼかし技法、そしてセザンヌの色彩や遠近感の表現を上手く取り入れ、奥村土牛ならではの 画風 を確立させた。
また、刷毛を用いて胡粉などを100回~200回程塗り重ね、非常に微妙な色加減が作品の特徴です。
花鳥画人物画風景画 と幅広く、様々な題材を手掛け、晩年 は富士山を多く描いた。
牛が歩く様に着実に前進を続け、描くことに専心した人生は、「画聖」と言われている。
「踊り子」「鳴門」「朝市の女」「醍醐」「僧」などが代表作として有名です。

奥村土牛の作品  画風と買取価格のワンポイント

奥村土牛買取

蘭之図

奥村土牛は、写生や画品を重視する姿勢を生涯貫き、豊かな現実感に満ちた気品のある画面構成で、清らかで温かみ溢れる作品を数多く生み出しました。
人物画や花鳥画、風景画など様々な題材を手掛けており、晩年の富士山を描いた作品は高価買取させて頂きます。晩年の作品には細い書体の 落款 が見られます。

奥村土牛は、小林古径から写生の技法を学び、自然界と無心に向き合いながら 素描 を地道に行いました。大正期頃までは、古径の画風を思わせる線的要素の強い 画風 です。
その後、セザンヌやゴッホ、ゴーギャンら後期 印象派 の色彩と遠近感の表現に衝撃を受け、写実 を超えた先の新たな表現に自らが目指す道を見出しました。
昭和に入り、速水御舟から 構図 を、横山大観からは朦朧体のぼかし 技法 を学び、日本画の 伝統 技法と 西洋画 の技法を融合させた土牛独自の画風を確立させました。晩年 は、薄塗りを何度も繰り返す独特な技法などを生み出し、微妙な色加減と濃密な色調に成功しました。

日本画 は簡単に描かれた作品から時間をかけた力作、また大きさや 図柄 により買取価格は大きく変わります。
奥村土牛の場合、若書き の作品よりも、晩年に描かれた全盛期の風景画が人気で、高価買取対象です。

 

 
略歴
明治22年 東京市京橋区に生まれる、本名は義三。
明治38年 梶田半古の 画塾入門 し、小林古径師事
明治40年 東京 勧業博覧会 で「敦盛」が入選。
大正 6 年 スケッチ 集を出版。「土牛」の 雅号 を使用する。
大正15年 速水御舟の研究会に出席し、刺激を受ける。
昭和 2 年 第14回 院展 で「胡瓜畑」が初入選。
昭和 4 年 第16回院展で「蓮池」が 日本美術院 院友に推挙される。
昭和11年 第1回帝展に「鴨」を出品し、政府の買上げとなる。
昭和20年 空襲で家が焼け、長野へ疎開。
昭和22年 帝国芸術院 会員。
昭和26年 武蔵野美術大学の 教授 に就任。
昭和34年 第44回院展にて奥村土牛「鳴門」を出品する。
昭和37年 文化勲章受章文化功労者 となる。
昭和55年 東京都名誉都民となる。
平成 2 年 長野県に奥村土牛記念美術館が開館。逝去、享年101歳。
 

 

奥村土牛の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。

掛軸の場合は、購入された時から入っている箱(共箱)は大切な箱で、共箱には奥村土牛の自筆のサインと 落款 が押されています。
共箱は、保証書も兼ねており、有る・無しで、買取価格は大きく変動します。
額装の場合は、共シール が大切な評価基準になります。
共シールとは、一般的に、名刺大で、額の裏側に貼られており、奥村土牛の直筆のサインと題名が書かれ、落款が押されています。

鑑定書の有無に関わらず、まず当店で無料の真贋の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。

下記のような汚れや剥脱があっても、現状のままお持ちください。
日本画は、「蔵シミ」や「ほし」と言われる汚れが出やすく、買取価格も変わってくるので、出来ればご確認ください。

奥村土牛の鑑定は、下記の鑑定機関で行われており、真贋を問うだけで約3万円~5万円かかります。

【所定鑑定人・鑑定機関

東京美術倶楽部鑑定委員会

お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。

百聞は一見に如かず、是非ご覧ください。
お譲り頂いたお客様に納得頂き、信頼と安心をお届けします。

奥村土牛をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。

当店には奥村土牛の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
奥村土牛の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。

奥村土牛の買取実績と買取価格の解説

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買取は古美術やかたへ!老舗骨董店ならではの6つの技

 

奥村土牛 略歴

奥村土牛買取

明治22年2月18日東京市京橋区南鞘町に生まれる。
である「土牛」は、生年の干支「己丑」と「寒山詩」の「土牛、石田を耕す」にちなんで、出版社を営んでいた父から与えられた。これが、のちの土牛の芸術的姿勢を貫くことになる。
画家 志望であった父は、出版業を営む傍ら、芸術家の支援にも熱心で、そんな父親から土牛は夢を託され、絵を描くことを大いに推奨された。
16歳で 日本画 家梶田半古の 画塾入門 し、当時塾頭だった小林古径師事 する。
写生に重きを置き、主に歴史画から学んだが、並々ならぬ努力を注ぎ描写力において確かな土台を築いた。
明治39年日本美術院の名で開かれた日本絵画 展覧会 に「菅公の幼時」が入選、翌年の東京 勧業博覧会 に「敦盛」が入選する。
また41年、42年の巽画会展でともに褒状を受賞する。
明治45年逓信省の為替貯金局統計課に勤務し、ポスターや統計図、絵葉書などを描き、5年間勤務した。
白樺派の文芸思潮や、セザンヌやゴッホ、ゴーギャンら後期 印象派 の影響を強く受け、色彩や遠近感の表現などを研究する。
22才頃から健康状態が優れず、以後約10年間にわたって写生に励み、その成果を、大正6年父の朝陽舎書店から スケッチ 集「スケッチそのをりをり」として出版する。またこの年から「土牛」の号を使用する。
大正10年から新人の登龍門であった中央美術社展、翌年から日本美術院試作展に入選を続け、日本美術院 研究員となる。
大正13年の中央美術社第5回展で「家」が中央美術賞を 受賞 する。
大正15年の春ごろから速水御舟の研究会に出席し、刺激を受けた。
昭和2年、第14回 院展 に「胡瓜畑」で初入選。
昭和に入り、古径の画風を思わせる大正期の線的要素の強い画風から豊かな色彩の表現へと移行し、昭和16年第28回院展に戦前の代表作「遅日」を出品する。
昭和22年 帝国芸術院(現日本芸術院)会員就任、昭和26年武蔵野美術大学教授、昭和28年女子美術大学教授を務める。
戦後の 画風 はさらにふくよかさを増し、昭和28年第38回院展「聖牛」、昭和31年第41回バレリーナ谷桃子をモデルにした「踊り子」、昭和32年第42回「浄心」、昭和34年第44回代表作の「鳴門」、昭和47年第57回「醍醐」、昭和52年第62回「吉野」、昭和53年第63回「僧」、昭和55年第65回「浄心」と、創作意欲は衰えることを知らなかった。
刷毛で胡粉などを100回~200回ともいわれる程塗り重ね、非常に微妙な色加減に成功した作品が特徴。
「写生」や「画品」を重視する姿勢を生涯貫き、豊かな現実感に満ちた気品のある画面を構成、清らかで温かみ溢れる作品を数多く生み出した。雅号、牛のあゆみのように着実な前進を続け、描くことのみに専心した人生は、「画聖」とも言われ、晩年は富士山を多く描き、皇居にも飾られている。
昭和37年 文化勲章 受章、文化功労者、昭和53年日本美術院 理事 長、昭和55年東京名誉都民となる。
平成2年9月25日逝去、享年101歳。

奥村土牛の主な出来事や作品の年表

明治22年(1889)東京市京橋区南鞘町(現・東京都中央区京橋一丁目)に生まれる。
明治33年(1900)城東尋常小学校卒業。
明治38年(1905)梶田半古の門を叩き、当時塾頭であった小林古径に 師事
明治39年(1906)日本美術院 の名で開かれた日本絵画展覧会にて「菅公の幼時」が入選。
明治40年(1907)東京 勧業博覧会 で「敦盛」が入選。
明治41年(1908)巽画会第8回展に妹をモデルにした「少女」と「ゆく春」を出品、「ゆく春」は褒状 受賞
明治42年(1909)巽画会第9回展に「とりこ」を出品、褒状受賞
明治45年(1912)逓信省の為替貯金局統計課に勤務し、ポスターや統計図、絵葉書などを描く仕事を5年間続ける。
大正 3年 (1914)半古没後、古径に師事。
大正 6年 (1917)木版スケッチ集「スケッチそのをりをり」を出版。「土牛」の 雅号 を使用。
大正 9年 (1920)古径の画室に住み、以後長い研鑚時代に入る。
大正12年(1923)関東大震災で東京の自宅を焼失、スケッチ、下図、作品などもすべて焼失。日本美術院研究会員となる。
大正15年(1926)古径の紹介で速水御舟の研究会に出席し、刺激を受ける。
昭和 2年 (1927)再興第14回院展で「胡瓜畑」が初入選する。
昭和 4年 (1929)第16回 院展 で「蓮池」が 日本美術院 院友に推挙される。森仁子と結婚。
昭和 7年 (1932)日本美術院 同人となる。
昭和 9年 (1934)関尚美堂によって九皐会が組織され、会員に迎えられる。
昭和10年(1935)帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)日本画科 教授 就任。
昭和11年(1936)改組第1回帝展で「鴨」が推奨第1位となり、政府の買上げとなる。
昭和16年(1941)第4回 新文展 審査員 に任命され、以後、第6回まで審査に当たる。
昭和18年(1943)社団法人日本美術報国会結成準備委員会の委員に任命される。
昭和19年(1944)東京美術学校(現・東京芸術大学)講師。
昭和20年(1945)空襲で家が焼け、長野へ疎開。
昭和21年(1946)日展 審査員に任命される。
昭和22年(1947)帝国芸術院 会員。
昭和26年(1951)武蔵野美術大学教授就任。
昭和31年(1956)第14回院展に、バレリーナ谷桃子をモデルとする「踊り子」を出品。
昭和34年(1969)日本美術院 理事。第44回院展に代表作となる「鳴門」を出品。
昭和36年(1971)「八重桜」を宮内庁に献上する。
昭和37年(1962)文化勲章 受章。文化功労者 となる。
昭和48年(1973)東京国立近代美術館評議員会 評議員 となる。
昭和53年(1978)日本美術院 理事長に任命される。
昭和55年(1980)東京都名誉都民。
平成 2年 (1990)長野県佐久郡八ヶ穂村に奥村土牛記念美術館が開館。9月26日逝去。

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