千利休 買取
千利休は安土桃山時代の茶人で、現在ある表千家や裏千家、武者小路千家の三千家の千家流茶道の開祖。
侘茶の完成者で、茶聖とも称せられており、千利休は新しい試みを茶道に持ち込み侘茶諸道具を残す。
茶の湯の開祖とされる、千利休ゆかりの逸品では、特別高価な買取価格の名品もあります。
日本一、歴史ある
京都祇園骨董街にあります。
京都は千年も続いた都です。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
約80軒の古美術骨董商が軒を連ねる、
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京都祇園で小売販売している
老舗骨董店だからこそ高価買取出来るのです。
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愛好家やコレクターの方が品物の入荷をお待ちです。
買取依頼のお客様に納得して頂くことを
第一と考えております。
ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
是非、ご来店頂くか、ホームページをご覧下さい。
京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。
千利休の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス
千利休(せんの りきゅう)・特徴と技法
1522年(大永2)~1591年(天正19)70才没。和泉国堺の商人で納屋衆の、魚屋田中与兵衛の長男として生まれました。
本名は田中与四郎と言います。法名は「宗易」や「抛筌斎」と号しました。
店の跡取りとして品位や教養を学ぶため、16歳で 茶の湯 の道に入りました。
茶の湯を習い始めたのは17歳の頃で、初めての師は堺の茶匠といわれています。
千利休は1544年(天文13年)、自身が23歳の時に初めての 茶会 を成功させます。
20代の時に堺の実質的支配者の一族の女性と結婚。
40代後半まで、御用商人として堺を離れずに家業に打ち込み、財を成しました。
1569年(永禄12年)以降、堺が織田信長の直轄地となり、今井宗久と津田宗及とともに、「天下の三宗匠」と呼ばれ信長に茶頭として召し抱えられるようになった千利休。
信長の御茶頭として、茶の湯を政治利用する信長の有力な協力者として活躍しました。
1582年(天正10)に 本能寺の変 で信長が死去した後は、豊臣秀吉の 茶頭 となり、「茶の湯」を一段と政治利用していきました。
天正13年,秀吉が正親町天皇に禁中献茶。「利休居士号」を下賜される。
天正15年には秀吉は北野大茶湯を開き、利休が取り仕切る。
政治性をおびた茶の湯を支え,秀吉の懐刀として政治的にも活躍した。
利休が政治的に秀吉政権に深くかかわった結果,天下の名物をわが物に自由に用いる。
やがて堺の商人たちの大きな力、既成の美の権威を認めない利休は次第に孤立する。
密接な関係にあった秀吉との確執により、秀吉の怒りに触れ、切腹させられます。
秀吉への諫言の意も込めて、謝罪して許しを請う道を選ばずに死罪を受け入れた。
室町時代の名物観を否定し、新しい高麗茶碗や瀬戸茶碗を評価する。
楽長次郎に命じて「宗易型」といわれる楽茶碗を創作するなど独創性を発揮。
また茶室ににじり口を設け、2畳という極小の茶室を作り、独自の茶の湯空間を創造。
こうした下剋上的な美意識は天下人秀吉の感と会わず、切腹の一要件の可能性がある。
その後、千少庵とその子宗旦に千家の再興が許され、利休の 茶の湯 が継承されている。
千利休の作品 作風と買取価格のワンポイント
侘茶の完成者で、茶聖とも称せられており、千利休は新しい試みを茶道に持ち込み侘茶諸道具を残した。
茶の湯の開祖とされる、千利休ゆかりの逸品では、特別高価な買取価格の名品もあります。
大永2年 (1522年) 和泉国堺の商人・納屋衆田中与兵衛の子として生まれ、本名は田中与四郎と云います。
(1540年)茶の湯 を学び、宗易(そうえき)を名のる。
永禄12年(1569年)堺が信長要求の矢銭2万貫を払って屈服し、信長直轄地、利休は著名な今井宗久らによって 茶の湯 に目覚めた。
天正元年(1573年)京都妙覚寺で信長の茶会が催されたときには、宗易が 濃茶 の点前を行った事が記されます。
天正10年(1582年)明智光秀の謀反により 本能寺の変 が起る。
天正13年(1585年)秀吉が関白になる、宗易を利休居士と号して禁裏御 茶会 を開きます。
天正17年(1589年)大徳寺 三門・金毛閣の上層が、千利休の寄進によって完成します。
天正18年(1590年)小田原の戦いの陣中で、追放中の一番 弟子 の山上宗二が秀吉に惨殺される。
この頃、秀吉を拒絶し始めます。秀吉の俗物根性に嫌気がさし、利休と秀吉との距離は徐々に開いて行く。
晩年の最後ははっきりと秀吉を拒絶し切腹させられ亡くなりました。
千利休の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。
千利休の作品の場合は、購入された時から入っている箱(共箱)は大切な箱で、共箱には千利休の自筆のサインと 落款 が押されています。共箱は、保証書も兼ねており、有る・無しで、買取価格は大きく変動します。
汚れや傷みがある場合でも、現状のままお持ちください。
鑑定証 の有無に関わらず、まず当店で無料の 真贋 の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。一般的に 絵画 の 鑑定 は、美術俱楽部やそれぞれの指定された 鑑定機関 で行われており、その場合、真贋を問うだけで、約3万円~5万円かかり、有料です。
【所定鑑定人・鑑定機関】
千利休の場合、鑑定機関はありません。
当店では高額な作品も扱っております、一例ですがご覧ください。
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千利休をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。
当店には千利休の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
千利休の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ、適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。
千利休の買取実績と買取価格の解説
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- 『和楽』10月号
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- 『FIGARO japon』12月号
- 『mr partner』2011年2月号
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- 『Hanako WEST』4月号
- 『骨董古美術の愉しみ方』(4月16日発行)
- 『近代盆栽』9月号
- 『Hanako WEST』11月号
- 『ORANGE travel』2006年 SUMMER
- 『婦人画報』2004年9月号
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千利休 略歴
1522年(大永2)に和泉国堺の商人・納屋衆、魚屋田中与兵衛の子として生まれ、本名は田中与四郎と称した。
手広く貸倉庫業や運輸業も営なむ納屋衆で裕福な家庭であり、母は法名が分かっており月岑妙珎で妹が宋円と名乗る。
千という姓は祖父の田中千阿弥に由来すると伝えられ、千阿弥は朝鮮から日本に移住した豊かな教養を身につけた文化人だとの説もある。
店の跡取りとして品位や教養を学ぶため、16歳で茶の道に入った。
南宗寺(堺市)で禅の修行を積み、「宗易」という号を授かった。
「松屋久政筆記」によると、1537年(天文6)2月13日に京都で朝会を開いており「此年、与四郎十六歳」と残されている。
17歳で北向道陳、18歳の時には、当時の 茶の湯 の第一人者・武野紹鴎に 入門 し、千宗易と名乗った。
1542年には飯盛山城主・三好長慶の妹とされる宝心妙樹と結婚、長男・千道安、長女、次女、3女、4女を設け、長じて著名な今井宗久・津田宗及とともに「天下の三宗匠」と呼ばれた。
1568年(永禄11)織田信長が自治都市堺に対して武力侵攻した際、和平派として信長に近づいた今井宗久、津田宗及と親しかった関係から、宗久、宗及とともに 茶頭 として信長に仕えるようになり、信長の茶頭の一人としてスカウトされた。
「千利休由緒書」によれば信長より御茶頭を仰せ付けられ三千石を給されたとある。
「今井宗久茶湯書抜」には、1570年(永禄13)今井宗久が信長の御前で宗易の点前で 薄茶 を賜り、さらに1573年(天正元)京都妙覚寺で信長の 茶会 が催されたときには、宗易が 濃茶 の点前を行った事が記されている。
利休は、信長の「茶の湯の政治利用」の有力な協力者として活躍し、堺の商人たちの大きな力ともなって行った。
1582年(天正10)に 本能寺の変 が起こり信長が亡くなったあとは、次の権力者となった豊臣秀吉の 茶頭 に乞われ、「茶の湯の政治の道具化」が進んでいった。
この頃から、利休の 茶の湯 は多くの政経済界の有力者の知己を得て、「道」にまで高まって行き、「茶道」として、簡素な芸術性を求める方向、わびさびに変って行った。
しかしながら、やがて晩年の利休は徐々に従来通り「政治の道具」「権力の象徴」として使い続ける秀吉の俗物根性に嫌気がさし始め、権力者秀吉との距離は徐々に開いて行くこととなる。
そして1590年(天正18)に北条との「小田原の戦い」の陣中で、追放中の一番 弟子 の山上宗二が秀吉に惨殺される事件が起こったのをきっかけに、秀吉とも関係は決裂した。
1590年(天正18)、晩年に大徳寺 の山門を修理した時、山門に自分の木像を設置したとの言い掛かりで、翌1591年(天正19)に入り蟄居・切腹を申付けられる。
秀吉の本音は本人の謝罪さえ入れば死罪にはしないつもりだったと考えれるが、利休は秀吉への諫言の意も込めて謝罪に応じず死罪を受け入れ、翌年に切腹して果てた。
千利休の主な出来事や作品の年表
大永2年 (1522年) 和泉国堺の商人・納屋衆田中与兵衛の子として生まれ、本名は田中与四郎と云います。
天文6年 (1537年)(松屋久政筆記)によると京都で朝会を開いており、此年、与四郎十六歳とあります。
(1542年)には飯盛山城主・三好長慶の妹とされる宝心妙樹と結婚。大林宗套より「宗易(そうえき)」の 号 を与えられた。
永禄12年(1569年)堺が信長要求の矢銭2万貫を払って屈服し、信長直轄地となった以降に、利休は著名な今井宗久らによって 茶の湯 に目覚めた信長の 茶頭 の一人としてスカウトされました。
永禄13年(1570年)(今井宗久茶湯書抜)には、4月2日今井宗久が信長の御前で宗易の点前で 薄茶 を賜った。
天正元年(1573年)京都妙覚寺で信長の茶会が催されたときには、宗易が 濃茶 の点前を行った事が記されます。
天正4年 (1576年) に安土城が竣工。
天正5年 (1577年) 宗易を茶頭として安土城の茶席開きが行われています。
天正10年(1582年)明智光秀の謀反により 本能寺の変 が起こり信長がいきなりいなくなります。
天正13年(1585年)7月11日に秀吉が関白になると程なく、宗易を利休居士と号して随行させ参内し禁裏御 茶会 を開きます。
天正17年(1589年)大徳寺三門・金毛閣の上層が、千利休の寄進によって完成します。
天正18年(1590年)に北条との小田原の戦いの陣中で、追放中の一番 弟子 の山上宗二が秀吉に惨殺される事件が起こったのをきっかけに、はっきりと秀吉を拒絶し始めます。大徳寺 の山門を修理した時、山門に自分の木像を設置したことが秀吉の怒りに触れ、翌年に切腹させられた。利休は徐々に従来通り『政治の道具』・『権力の象徴』として使い続ける秀吉の俗物根性に嫌気がさし始めます。
その為、利休と権力者秀吉との距離は徐々に開いて行くこととなりました。
晩年の最後ははっきりと秀吉を拒絶し切腹させられ亡くなりました。
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